81. LC/MSのノイズバックグラウンド
このTipsではフタル酸エステルを主に取り上げます。
フタル酸エステル類は、人体への影響や環境汚染への懸念から世界各国で規制されています(文献1)ので、この解説は既に有名無実かもしれませんが、私はLC/MSでずいぶんフタル酸エステルに由来するノイズで苦労させられました。
フタル酸エステル類は、試料保管や前処理工程で使用するプラスチック容器の可塑剤として用いられています。
質量分析では、モノアイソトピック質量390.2770のフタル酸ジイソオクチル(フタル酸ジエチルヘキシル)のプロトン付加体([M+H]+,m/z 391)とナトリウム付加体([M+Na]+,m/z 413)がしばしば観測されます。また、カリウム付加体([M+K]+,m/z 429)、さらには二量体に由来するイオン[2M+NH4]+(m/z 798)や[2M+Na]+(m/z 803)が観測される場合もあります。
また「フタル酸ジブチル」のプロトン付加体(m/z 279)とナトリウム付加体のイオン(m/z 301)が検出されることもあります。容器由来のバックグラウンドノイズにはその他に、シリコン樹脂製品のポリシロキサン類、特にドデカメチルシクロヘキサシロキサン([M+H]+,m/z 445)に由来するイオンが観測されることもあります。
このようなイオンは質量分析において妨害となりますが、精密質量測定においてはこれらを分析中の質量校正として使用することがあります(ロックマス(lock mass)法)。
精密質量分析で未知化合物の組成式を推定することが出来ますが、長時間測定を続けていると、キャリブレーションがずれることがしばしば起こります。そのため、分析中に既知のイオンでロックマスキャリブレーションをかけることで、安定した精密質量測定精度を維持することができます。
デュアル・エレクトロスプレーイオン源を用い、HPLCからとは別に既知の成分の入った溶液を質量分析計へ導入したり、環境中の常に安定して観測されている成分を使用したりしてキャリブレーションを行います。後者で用いられる代表的な成分が、フタル酸ジイソオクチルやドデカメチルシクロヘキサシロキサンです。
また、装置の校正に使用することがあるポリエチレングリコール(PEG)の残存もバックグランドの上昇や測定に影響を与える場合があります。PEGはHO-(CH2-CH2-O)n-Hの一般式で表されるように、(CH2-CH2-O)に由来する44 Da単位の特徴的なスペクトルパターンが得られます(図2)。
バックグラウンドノイズについては、エムエスソリューションズの高橋豊さんのブログ(文献2)が参考になります。また文献3はLC/MSにおけるコンタミ・キャリーオーバー対策がまとめられているので一読をお勧めします。

図1 フタル酸エステル類,ポリエチレングリコールおよびポリシロキサンの構造式

図2 ポリエチレングリコールのマススペクトル
【参考文献】
1.https://www.shimadzu-techno.co.jp/annai/tes/s01_05.html
2.https://www.sitsuryobunsekiya.com/blog/273778.html
3.小林まなみ、液体クロマトグラフィー質量分析法の 基礎と測定時の注意点 ぶんせき2025(2), 32-38 (2025).https://bunseki.jsac.jp/wp-content/uploads/2025/02/p32.pdf