184. 市民講座がなぜかしっくりこない
興味のあることについて、もう少し知識を深めたいという意欲はまだまだあります。
しかし資格がほしいとか、その道の専門家になりたいとかではない、つまり本格的に勉強し直す覚悟があるわけではありません。「興味がある」ので、すでに本を読んだり、何かしらの経験を積んでいたりしているので、多少の知識・知見をもっています。
これは、私がカルチャースクールや大学の公開講座に参加したときのお話です。
気象オタクの私は、森田正光さんや晴山紋音さんの講演会に参加してました。その話はわかりやすく、構成もよく練られていました。言うまでもなくお二人に何の責任もないのですが、私が漠然と期待していた新しい発見や気づきはありませんでした。一般の人を対象としたセミナーである以上、話題が「身近な」防災に寄らざるを得ないし、「テレビに出ている人をナマで見られてよかった。お話上手ね。」という親近感・満足感をもって帰ってもらうことも主催者の意図の一つであることは理解しますが、私個人には物足りないものでした。
「落語から学ぶコミュニケーション力」というタイトルだったか、ある大学主催の講座を聴講したことがあります。
真打の落語家さんが講師で、一席聴くことが出来ることは魅力でした。落語は登場人物の掛け合いで成り立っているので、落語を切り口にコミュニケーションを語るというのはいい着眼点だと期待していました。
しかし、その期待は最初の10分で裏切られました。講義の冒頭に紹介されたすばらしい「コミュニケーション」の例は、ある「超」有名人が周囲を和ませた、たった一つの言葉でした。「超」有名人から発せられたからこそ意味があるのであって、私たち一般人からすれば普通の気配りの一言にすぎませんし、その場の雰囲気はよくなったかもしれませんが、それはコミュニケーションとは言えない。またそのエピソードと演目とに関連性はなく、さらにコミュニケーション講座であるにもかかわらずディスカッションの時間はなく、落語のあとにはレポートを書かされました。(当然ながら、私はこのような内容を書きなぐって帰りました。)シリーズの講座でしたが、カネを払ってまで不愉快な時間を過ごすことはないと、前納した聴講料はもったいなかったのですが、早々にリタイアしました。
少しだけ擁護するとすれば、「落語から学ぶ○○」は人気の講座で続いています。もしかすると次回以降は私も満足する展開になっていたかもしれません。
私自身、講演や講義を頼まれる立場でもあります。招待される場合がほとんどですから主催者の意図はあらかじめ知らされていますし、聴講者も絞られています。内容は同じであっても相手に合わせてストーリーやレベルを組み替えられます。
しかし市民講座のように「誰にでも開かれている場」は、話す側にとっても聴く側にとってもかなり厄介な場です。不特定多数が対象であるとレベル設定がとても難しく、いわゆる最大公約数的なところ、おおよそ半分以上の方が理解し満足するようなものになってしまいます。学生対象の講義であれば、つまらなくても単位というノルマがあるので、学生はリタイアしませんが、市民講座にはそれがないので、受け手のわがままも露わになります。
とりとめもない話題でした。
私に謙虚さが足りないことは重々理解しています。
しかし、さまざまな公開講座やセミナーがあるにもかかわらず、「中途半端に少し詳しい人」が「居心地よく学べる場所」は、とても少ないのではと感じています。

