123. 情報は疑ってかかれ
「東京スポーツ(東スポ)」という新聞があります。私世代の共通認識は、電車の中で読むのはちょっと勇気がいる新聞で、一部の記事は面白いが、その紙面で正しいことはスポーツの結果と競馬の枠順(馬柱)だけ、というものでした。(失礼すぎるかな?!)
私たちの若い頃の情報源は、新聞であり今でいう地上波だけでした。
全国4大紙やニュースで報道されたものが真実であると信じてきましたが、実際は新聞社(報道機関)独自の視座にたった偏りがかなり激しく、これって本当に「正義」とか、世論を誘導しているのでは!?と疑われても仕方がない記事が数多くあることを、年齢を重ね経験を積むとわかってきます。言い換えれば、間接的に知る情報に関しては、全国紙も東スポもそのまま信じてはいけないということの免疫が私たち世代にはあります。
さて、最近は情報源が数限りなくあります。その発信者はいわゆる一般市民でもあり、意図的に情報を歪曲して発信する人がたくさんがいます。
自分がスマホなどでその情報を少し調べたりすると、「あなたはこれに興味がありますね」と言わんばかりに、似たような情報を表示してくれて、嫌でもより多くのゴミのような関連情報を目にすることになります。そして発信されている情報は、文字数の制限なのかそれも意図的なのか、短く断定的かつ扇動的な文であり、また画像付きです。その画像も切り取りであったり、合成であったりするようです。それが更に拡散されます。技術の進歩は歓迎するところではありますが、これらを信じる人、極端に言えば洗脳される人がいても仕方がないと状況だと思います。
特段、なにかの出来事について指摘しているつもりはありませんが、今年はそういう案件が多く観られましたし、またその現象についてのもっともらしい報道もあります。
社会に「道徳」が薄れてきたのは事実です。
個人的には、情報源を政治的に規制することには反対です。規制は100人には有効であったとしても、その他の「真っ当な」1,000万人には面倒なことであったり不利益な縛りになったりするからです。制限に対抗して、また新たで巧妙(だいたい悪質)な別の手段があらわれて新たな被害者がでるのも世の常です。
科学も疑うことが大事なのですが、情報も「まず疑うことから始める」ことは間違いのない真実です。