92.季節の移り変わりと徒然草
先日のコラム「春らんまん」の最後に「春は花についつい目を奪われますが、枯れているように見える枝から新葉が生き生きと出てくるのも観察され、その姿に生命力を感じます。アジサイは、梅雨に咲くべく、準備を始めています。」と書きました。それに合わせてアジサイの枝から小さい葉が出ている様子を撮影していたのですが、その写真を掲載するのを失念していました。あっという間に、桜は葉桜になり、アジサイには濃い緑色の葉が茂っています。至る所でつつじが明るく咲いていますし、満開のネモフィラがテレビで紹介されています。
四季の「移り変わり」を著した随筆として、徒然草第百五十五段の一節は秀逸です。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。
春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。
木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。
正確ではないとは思いますが、現代語訳をしてみますと、
春が終わった後に夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。
春はすぐに夏の気配を含んでいるし、夏にはすでに秋が迫っているし、秋になったとたんに寒くなるが、10月には小春日和があり草が青くなったり、梅の蕾がふくらんだりすることもある。
木の葉が落ちるが、まず葉が落ちてから芽が出るわけではなく、下から新芽が出る兆しがありそれに耐えられずに落ちるものなのだ。
春夏秋冬にははっきりとした区切りがあるというわけではなく、桜が満開の中でアジサイが準備をしているように、連続性をもって変化していることは今も昔も変わりません。
ところで、徒然草のこの段は「世に従はん人は、まづ機嫌を知るべし。」で始まっています。季節の移り変わりが主題というわけではありません。
先ほどの一節の前に、次のような文章があります。
世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。
序悪き事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。
さやうの折節を心得べきなり。
但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。
生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るゝが如し。
暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。
されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。
とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
少し長くなりますが、さらに後段では以下のような文章が続いてます。
迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。
かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満るが如し。
徒然草は比較的平易な文章なので、吉田兼好のだいたいの意図はわかりますよね。
因みにGoogle AIによると、「一番の処世術はタイミングを掴むことである。順序を誤れば、反対され、誤解を与え、失敗に終わる。そのタイミングを知っておくべきだ。ただし、四季には順序があるが、病気や出産、死になると、タイミングなど無く、都合が悪くても逃れられない。」ということだそうです。
徒然草は時代を経ても全く色あせることはありません。